本講演では、韓国のKorea UniversityのHackjin Kim博士に新しい学問領域でもある神経社会科学について、「When Brain Met Society: Recent Trends in Social Neuroscience」と題してご講演頂いた。Hackjin Kim博士は、カリフォルニア工科大学でO'Doherty, Shimojo Labでポスドク時代を過ごされ、私たちの脳には複数の意思決定に関わる回路があり、その中の一部は、その処理過程が意識される前に判断を下しているというfMRI研究(Kim et al., PNAS, 2007)で知られる、新進気鋭の神経科学者である。
社会神経科学は、神経科学と社会科学の両アプローチを相補的に取り入れた学際的分野であり、ヒトの社会的・情動的側面を分析する。社会生活を営むためには、自分自身の思考過程を適切に制御するのみでなく、他者が何を考え、何を望んでいるのか、またその意図を理解すると同時に、今どのような行動を取るべきかについて適切に判断しなければならない。そのためには、他者の心的状態を的確に把握し理解することが重要である。そうした認知的な営みは、どのような脳の神経基盤に支えられているのであろうか。このような問いに答えようとしているのが社会心理学と神経科学との共同研究によって新しく生まれた神経社会科学である。本講演では、最新の神経社会科学における最新の研究の紹介を行って頂いた。神経社会科学が扱っているテーマには、自己、平等、差別、信頼、道徳的判断、互恵性、共感といったものがある。これらの中から具体的にいくつかのテーマにしぼって研究を紹介していただいた。
「信頼」は人間が社会を作って暮らして行くにはなくてはならない要素である。Kosfeld ら (2005)は、オキシトシン(神経ペプチドホルモン)は血液脳関門を通過できるため、被験者にそれぞれオキシトシンかプラシーボ(偽薬;対照実験のため) を鼻からの噴霧により与え、信頼ゲームに参加してもらった。その結果、オキシトシンを吸引した人々は、オキシトシンを吸引しなかった人々と比べて、他者に対して提供した投資額が優位に多かった。このことは、オキシトシンが他者一般に対する信頼を向上させることを示している。
また共感については、Singerら(2006)は被験者にサクラとマネーゲームを行わせて、その後の脳活動を測定した。彼らは、マネーゲームで被験者に対して不利益なやり取りをしたサクラがその後に電気ショックを受けて苦しんでいるのを被験者が目撃した際の脳活動を測定したところ、同情を司る部位の活動が女性においては、活発であったのに対して、男性ではそのような傾向は顕著にみられず、報酬系の活動が高まっていることがわかった。このことから、女性は不正をなした者であっても今まさに苦しんでいるという状況を重視し、それを想像して苦痛を感じやすく、共感を示しているのに対して、男性は自分にひどいことをしたという経緯を重視し、その者が痛めつけられている姿にむしろ喜びを見いだしやすいことを示唆した。
VMPFC損傷者が道徳的な振る舞いができなくなるというこの症例観察から、現在の神経科学研究では、トロッコ問題のような道徳的ジレンマを用いた実験が行われた(Koenigs et al., 2007)。その結果、健常者においては、道徳的判断において感情が重要な役割を果たしており、脳の前頭前野の一部を損傷した人たちは感情の低下のゆえに、健常者とは異なる道徳的判断を行うと考えられる。ただし、こうした研究はまだ確定的ではなく、いまだ論争中であり、さまざまな研究が進められている。
道徳における感情の役割を明らかにし始めている神経科学へのインパクトは特に大きいと思った。最初、道徳的であるとは一時の感情に惑わされることなく理性的に考えて判断・行動することだというふうに考えていた。しかしながら、この講演で紹介された研究結果から将来的には,道徳は理性的に考えて判断・行動することではなく感情に従って判断・行為することだという考え方に変わっていくかもしれないと思った。こうした道徳の脳科学がもたらす知見は、将来社会にどのような影響を及ぼすのだろうかについては慎重に考えなくてはならないと思った。これまでの道徳とは理性的に考えて振る舞うことであるという概念に支えられていた理論や制度は再考を迫られ、部分的には再構築する必要がでてくるかもしれない。そして、こうした変革は学問のみならず社会に対しても影響を及ぼす可能性があると考えた。
日時 | 2008(平成20)年9月19日(金)13:00~15:00 |
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場所 | 玉川大学研究管理棟5階508室 |
報告者 | 山本 愛実(玉川大学脳科学研究所・嘱託研究員) |