本講演では、哲学者の東京大学大学院・野矢茂樹教授が、"「心」の意味・「他者」の意味"というタイトルでお話しされた。詳細は、玉川大学出版部の発行する「全人」第734号を参照していただくこととし、本稿では、野矢氏の講演を聞いて私が感じたことを主に述べたいと思う。
今回の講演で、私が大変興味深く感じたのは、「心」の定義の仕方であった。野矢氏は、従来の哲学における「心」に対する議論で前提とされる、「心は1人1人に秘められた内なる世界だ」という考えを批判した。次に、自らの主張を展開するために、自己と他者の意見が一致する場合、不一致の場合について考察した。さらに、不一致の場合について、不一致であることが、自己と他者の間で問題になる場合と、問題とされない場合が存在することを指摘した。前者は、例えば、「この犬はけがをしているかどうか」という不一致であり、これは、"客観的"とされる事柄に対する不一致である。後者の例として「この犬はかわいいかどうか」というものがあり、これは"主観的"な事に対する不一致となる。これを踏まえ、野矢氏は、他者と一致しなければならないと感じされるものが"客観的"とみなされ、他者と一致する必要を感じないものが"心"とされるのだと主張した。
この心の定義は、私には大変興味深く感じられた。もし、脳科学的に心を研究しようとするならば、まず、心とは何かを定義しなければならない。しかし、心のような曖昧なものを定義することは非常に困難である。人間の高次な認知活動に対して脳科学的に研究することの難しさの1つはここにある。ここで、野矢氏の定義について考えてみたい。まず、重要なのは、野矢氏の定義では、心とは何かということに対して、他者の存在が必要になっている点である。つまり、心が個人のなかだけで定義できるものではないということになる。この点に関しては、脳科学の知見と必ずしも矛盾する主張ではない。例えば、下條信輔カリフォルニア工科大学教授によれば、心は他者が存在するから生まれると考えられるという[1]。また、野矢氏の定義は、心の発生を脳における神経活動に求めようとする脳科学的な考えと一見矛盾するようにもみえる。しかし、人間は他者との意見の一致するような条件や状況を発達期に多く経験しており、そのなかで、意見が一致しない条件をもって心と認識すると考え、そのための神経ネットワークを考えるならば、これも必ずしも矛盾するわけではない。私の受けた印象では、野矢氏の考えと脳科学的な考えは、それほど違わない結論になる可能性も高いように思う。
もう1点、野矢氏の定義で興味深く感じたのは、野矢氏の定義があくまでも"外"からの観察による定義である点である。"外"というのは、内観も含めて、人の言動による定義であるということである。脳科学的な考えにおいては、脳内の活動(神経活動など)が重要になる。そのため、心とは何かという問いに対して、「ある領域の神経活動」「ある神経発火パターン」というような答えをしがちであるように思う。もちろん、最終的にはそのような定義が可能であるかもしれない。しかし、それ以前に、人が観測し、感じるもののうち、なにをもって心と名付けているか、どのような文脈と刺激に対して心を感じるのかということが分からなければ、脳科学的に研究すること事はできない。その意味で、野矢氏の心の定義は非常に興味深く感じた。
私は哲学に詳しいわけではなく、野矢氏の考えが、哲学において一般的なものかどうかを判断することはできないが、本講演を聞いて私の受けた印象では、哲学は私が思っていたよりも脳科学に近く、また、脳研究者にとって、多くのヒントを与えてくれる分野なのではないかと感じた。哲学と脳科学は互いに影響を与えつつ発展していくことが望ましいのではないだろうかと考えた。
日時 | 2009年10月5日(月)16時00分~17時00分 |
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場所 | 玉川大学研究管理棟5階507室 |
報告者 | 内田 淳(玉川大学脳科学研究所・GCOE RA) |