【レポート】 第5回 グローバルCOE特別講義

『人間の親子関係と知性の進化~チンパンジーの研究から~』
松沢 哲郎 氏(京都大学霊長類研究所・教授)

 本講演では、京都大学霊長類研究所所長・思考言語分野教授の松沢哲郎先生にお話しいただいた。

 心(知性)とは何か。その理解を目指して分野を問わず多くの研究がおこなわれている。その中で、比較認知科学は心を進化の産物ととらえ、ヒトと、進化的に近縁であるヒト以外の霊長類の行動を比較することで心の進化の解明を目指す学問として、学際的視点から興味深い知見を提供している。松沢教授は、チンパンジー・アイと共に1978年にスタートした「アイ・プロジェクト」、そして、アイ・息子アユムを含むチンパンジー3母子を対象とした「チンパンジー認知発達研究プロジェクト」などにおいて、チンパンジーとヒトに関する多くの比較研究をおこなわれ、比較認知科学の発展をけん引されてきた。今回は、子育てそして教育からみえるチンパンジーとヒトの知性の進化をテーマにご講演いただいた。

 チンパンジーとヒトの子育てはそれぞれに特徴的である。ヒトが母親・父親を含む複数人で子どもを育てるのに対して、チンパンジーの子育ては母親だけがおこなう。さらに、ヒトは複数の子どもを同時に育てるが、チンパンジーは一度に一人の子どもだけを育てる。また、チンパンジーの子どもはほとんどの時間を母親にしがみついて過ごす。それに対して、ヒトでは複数の子どもを同時に育てるという理由などから、母子は物理的に離れていることが多い。このような物理的な分離からヒトの子どもは母親への音声による働きかけをするようになった。これがヒト特有の高い言語コミュニケーション能力をもたらしたと考えられる。また、母親にしがみつくことの多いチンパンジーと違い、ヒトの子どもは仰向けの姿勢で安定し、両手が自由になる。このことがヒトのより高度な道具使用能力につながったと松沢教授は考える。

 さらに、子どもの教育にも特徴がみられる。ヒトの教育は、子どもの行為を助け、叱ったりほめたりしながら「教える」という形をとるが、チンパンジーの親は教えない。その代わり、親が手本を見せ、子どもが真似をするという師弟のような形をとる。また種間での顕著な認知能力の違いのひとつとして、チンパンジーにおける優れた短期記憶が挙げられた。チンパンジーは画面に一瞬呈示された0から9までの数字の順序を覚えてしまう。ヒトの大人にまさる能力である。しかし一方で、チンパンジーは今見たものを記憶することは得意だが、目の前にないものを想像することは苦手なようだ。目鼻のないチンパンジーの顔の輪郭を描いた紙を渡すと、チンパンジーはすでに描かれた輪郭をなぞる。しかし、ヒトの子どもはそこに目鼻を書き加える。このような「今ここにないもの」を想像する能力によって、ヒトの心が展開される時間や空間の幅は大きく広がった。そしてこのような想像力をもつことで、ヒトは希望や絶望といった感情を抱くことができると松沢教授は言う。ヒトの心がどのように生まれるのかについて考えさせられる印象的なお話だった。

 当日は、チンパンジーの道具使用や短期記憶課題の様子を写したビデオに参加者から驚きや感心の声が上がっていた。また、講演後には一般の方からも松沢教授への質問が多く寄せられ、活発な質疑応答がおこなわれた。今回の講演は心の理解に関する第一線の研究を聞く好機であるとともに、研究成果を多くの方に還元することの重要性を改めて感じる機会となった。

日時 2009年8月2日(日)16時30分~18時00分
場所 玉川学園講堂
報告者 村井千寿子(玉川大学脳科学研究所・研究員)