本講演では生理学研究所・認知行動発達機構研究部門の高浦氏に、大脳皮質一次視覚野(V1)を片側切除したサルでの記憶誘導性サッケードとその神経基盤についてご紹介頂いた。片側V1を切除したサルは「盲視」と呼ばれる現象のモデル動物とされてきている。盲視とは、あるV1損傷患者の症例報告に始まった極めて興味深い現象を指す。霊長類の大脳皮質で行われる視覚情報処理の大半はV1に始まると考えられており、V1を損傷すると対応する視野の中でものが見えなくなってしまうことが知られている。しかし、この損傷視野の中に視覚刺激を提示し、患者に当てずっぽうでもいいから指さしやサッケードで定位してみるようにようにと指示すると、何も見えないと口頭では報告しているにもかかわらず、実際には偶然以上の高い確率で定位することができる。このような、V1損傷後に観察される視覚的な気づきとは乖離した視覚情報処理能力が盲視である。
損傷視野内での視覚情報処理については様々な検討が行われてきており、形や傾き・色の弁別、ボトムアップに空間的注意を引き付ける機能など、多くの視覚情報処理能力が残存すると報告されてきている。しかしその一方で損傷視野内では無理だろう、と推測されているのが視覚情報の作業記憶への利用である。ここで言う作業記憶とは、ある目的を持った一連の動作の中で必要な情報を一時的に、すぐに使える形で脳内に留めておく能力を指す。このような能力は感覚情報をより柔軟な形で利用することを可能としており、対象となる感覚情報を意識的に知覚すること、つまり視覚情報の場合には視覚的な気づきを持つことと、極めて密接に関係するものと考えられている。V1損傷後には視覚的な気づきが失われているのだから、V1損傷後の視野内の視覚情報を作業記憶に使うことはできないだろう、というのが現在まで広く受け入れられて見解である。また、従来の研究結果から作業記憶の神経基盤として主に皮質領域が挙げられてきていることも、この見解をもっともらしく見せてきた。皮質で行われる視覚情報処理のほとんどがV1由来である以上、V1の損傷によって皮質領域の情報処理の機能が質的にも量的にも大きく損なわれることは自明なためである。
しかし生理学研究所、伊佐教授・吉田助教の研究グループでのモデル動物を使った実験結果から、この見解が必ずしも真ではないことが明らかになった。本講演では盲視のモデル動物である片側V1切除サルが損傷視野内で記憶誘導性のサッケードが可能であること、さらにはその神経基盤として脳幹の一領域である上丘が機能していることを示唆する損傷側上丘でのシングルユニットレコーディングの結果とが紹介された。損傷患者での先行研究では、損傷側の上丘は通常では見られない特殊な投射を持つようになっていることが示唆されており、その投射先には両半球の前頭前野、後頭頂葉といった健常な脳で作業記憶を主に担うと考えられる領域が含まれているという。V1損傷によって皮質に入力される情報が乏しくなってしまった後、それを補うために脳は上丘のような皮質下の領域をネットワークの中に動員して、失われそうになった機能を補償しているのではないかという見解が述べられていた。
霊長類での脳損傷モデル動物を使った研究は、実験技術や必要となる時間、費用などあらゆる面で極めて難易度が高い。大変貴重な研究結果を紹介して頂き、活発な議論が行われ大変有意義な講演となった。
日時 | 2009(平成21)年3月26日(木)15:00~16:00 |
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場所 | 玉川大学 研究・管理棟 501教室 |
報告者 | 則武 厚(玉川大学脳科学研究所・嘱託教員) |