【レポート】
脳科学リテラシー部門 第9回研究会
「精神医学と哲学」

「こころと脳の自己制御」
笠井 清登(東京大学大学院医学系研究科 精神医学分野 教授)

「精神医学と治療のアポリア」
生田 孝(聖隷浜松病院 精神科 部長)

「精神療法は生き残れるか?-精神医学基礎論(Philosophy of Psychiatry)の観点から-」
田所 重紀(千葉大学附属病院精神神経科 非常勤医員)

2011年2月27日(日)、玉川大学脳科学研究所脳科学リテラシー部門研究会が開催された。第9回目となる今回は、「精神医学と哲学」をテーマとし、特に精神医学に関わる方法論的問題に焦点をあてた。精神医学の内部では、化学や脳科学の知見に基づき、薬物療法を中心とする方法論(生物学的アプローチ)と、精神分析や現象学の知見に基づき、心理療法を中心とする方法論(力動的アプローチ)とが並存(ないしは対立)していることが知られている。今回の研究会では、これらのアプローチがそれぞれ精神疾患の治療においてどのような特徴を有しており、どのような形で関係し合うべきかを検討するべく、実際に臨床の現場に立たれている3名の講演者にご登壇をお願いした。

最初にご登壇いただいた笠井清登氏(東京大学大学院医学系研究科精神医学分野)には「こころと脳の自己制御」というタイトルでご講演いただいた。氏ははじめに、精神疾患が及ぼしている社会的影響やそれを取り巻く社会状況について概要を述べられた上で、ご自身が専門とされている統合失調症に関する話題を中心にお話を展開された。統合失調症は幻覚や妄想、記憶障害や意欲減退などのさまざま症候を伴うが、自我意識の障害など自己に関するメタ認知が関わる疾患であるという点に特徴がある。氏は統合失調症に関する病態仮説の歴史を紐解きながら、クレペリンによって主張された進行性脳病態の存在が、一旦は否定されつつも、その後の脳画像研究などの進展によって再度承認されるに至った経緯を紹介された。このことは、発症移行への予防や発症後の予後の改善を図る上で、前駆状態への介入や発症後の早期介入が重要であることを示唆するものである。氏はさらに、脳への薬理的・物理的な介入による精神制御と、自我への心理的・言語的な介入による精神制御とは相矛盾するものではなく、実際の治療や予防においてはそれら双方を積極的に活用していくべきことを強調された。統合失調症からの回復は新たな価値観を備えた自我の形成を必要とするため、そうした形成の助けとなる心理的なアプローチも不可欠なのである。ただし氏は、心理的アプローチも無批判に取り入れられるべきではなく、何らかのエビデンスに基づいた形でその効果が評価されるべきであるという指摘も付け加えられた。

二番目にご登壇いただいた生田孝氏(聖隷浜松病院精神科)には「精神医学と治療のアポリア」というタイトルでご講演いただいた。氏はまず、精神医学は生物学的精神医学と精神病理学を二本の柱としており、前者の「事実学」だけでなく後者の「意味学」を含むという点で、身体医学とは性格を異にするということを指摘された。精神病理学は患者の体験世界の意味内容を問い、そこで見出された意味の変化を目指す学であり、事実を扱う生物学的精神医学ではなしえない独自の役割を担っている。氏はさらに、精神障害を身体的な原因の明確な「種」とそうではない「類型」に区分して捉える必要があることを指摘された上で、精神障害を幾つかの群に分類し、それぞれの群に対して「了解」概念との関係から分析を加えられた。意味学としての精神病理学において重要なのが、患者の心を因果連関によって「説明」することではなく、意味連関によって「了解」することである。患者の心に対する了解可能性は、それを理解しようとする者の了解能力に大きく依存する。精神疾患においては、通常の意味連関が崩れ、通常の了解能力では了解不可能な連関が形成される場合がある。それゆえ、治療者の側は、臨床の場に学びつつ、「冷徹な観察者」の立場を離れて患者と接することで、了解の地平を不断に拡げてゆく必要があるのである。最後に氏は、精神療法の成立根拠の問題に触れ、それがいまだ開かれた問いのままに留まっているということを論じられた。

最後にご登壇いただいた田所重紀氏(千葉大学附属病院精神神経科)には「精神療法は生き残れるか?-精神医学基礎論(Philosophy of Psychiatry)の観点から-」というタイトルでご講演いただいた。氏はまず、多種多様な精神療法が林立する現状においては、それらの精神療法の治療作用を統一的に説明する基礎的な理論が求められており、そうした基礎理論に関して探究を行う学問として精神医学基礎論を位置づけることができると論じられた。次に氏は、広く治療効果の認められている認知行動療法を題材に取り、それを支える認知行動理論におけるさまざまなモデルの共通基盤を探ることで、精神療法の基礎理論についてのヒントが得られるのではないかと指摘された。氏の見解では、そうした共通基盤は「素朴心理学」(folk psychology)に求められる。素朴心理学とは、他者(ないしは自分)の行動や感情を合理的に理解したり説明したりするための、日常的かつ実践的な理論枠組みのことであり、病的な行動や感情を検出する際の判断基準の一つにもなりうる。しかし、素朴心理学については、それを神経生物学に還元することの困難が指摘されており、その点で薬物療法との整合性に問題を抱えている。氏は思考実験を通じてこの還元不可能性の論拠を説明し、臨床の場では素朴心理学に対する消去主義の可能性が現実的な問題を孕んだものであるということを論じられた。氏は最後に、この問題に対する解決策の見通しとして、還元可能性の再検討を行う方向性と、精神療法の独自な存在意義を探究する方向性の二つが考えられることを指摘し、講演を閉じられた。

以上、いずれの講演も大変興味深いものであり、各講演後にはそれぞれ会場を巻き込んで熱心な質疑応答が行われた。精神医学の方法論をめぐってはいまだ多くの未解明な問いが残されているが、本研究会を通じて、それらの問いがどのような性格のものであり、それらの解決へ向けてどのような方向性がありうるのかについて重要な示唆を得ることができたように思う。この点で、本研究会は大変有意義なものであったと言えよう。

日時 平成23年2月27日(日)13:30~18:30
場所 玉川大学 研究・管理棟 5階507室
報告者 小口 峰樹(玉川大学GCOE研究員)